トピックス2026.08.28
真珠が語るもう一つのカーボンストーリー 海洋のバイオミネラリゼーションと「パールカーボン」の可能性
地球温暖化問題が世界的な課題となる中、CO₂(二酸化炭素)排出削減が社会の大きなテーマとなっています。
地球誕生初期には、大気中のCO₂濃度は現在よりはるかに高かったと考えられています。しかし現在、その濃度は約0.04%にまで低下しています。この大きな変化の背景には、海洋へのCO₂吸収だけでなく、生物による炭酸カルシウム形成と、それが堆積して石灰岩となる長期的な炭素固定があったとされています。私たちは普段、CO₂を温暖化の原因物質として捉えていますが、地球の歴史を見れば、CO₂は生命活動を支える重要な炭素源でもあります。だからこそ、単なる排出削減だけではなく、生物がどのように炭素を固定し循環させてきたのかを理解することも重要ではないでしょうか。
近年注目されているのが、海洋生物による「バイオミネラリゼーション」です。これは生物が体内や体表で鉱物を形成する現象であり、貝殻やサンゴ、ウニの骨格、そして真珠などが代表例です。これらの主成分である炭酸カルシウム(CaCO₃)は、海洋における大きな炭素貯蔵体の一つとして知られています。
従来、炭酸カルシウム形成は単純な無機化学反応として理解され、生物による石灰化は炭素固定に寄与しないと考えられることもありました。しかし近年、生体内で起こる石灰化は、細胞機能やタンパク質、生体高分子が高度に関与する複雑な生命現象であることが明らかになってきました。こうした研究の進展により、生物による炭酸塩形成が炭素循環に果たす役割が改めて注目されています。
実は、このバイオミネラリゼーション研究は日本とも深い関わりを持っています。バイオミネラリゼーションとは、生物が鉱物を形成する現象を対象とする学問であり、貝殻や真珠だけでなく、サンゴ、ウニ、甲殻類、さらには骨や歯なども研究対象に含まれます。
こうした研究分野は、日本の研究者によって体系化が進められ、今日のバイオミネラリゼーション研究の基盤が築かれてきました。そのため、バイオミネラリゼーションは日本発の学問領域の一つとして国際的にも知られています。
私たちが2006年から取り組んできた「真珠層形成研究会」も、この大きな研究の流れの中に位置付けられます。研究会では、真珠や貝殻がどのような生体メカニズムによって形成されるのかを、分子生物学、水産学、材料科学など多様な分野の研究者とともに探究してきました。その過程で、生物が炭酸カルシウムを精密に制御しながら形成する仕組みに着目し、バイオミネラリゼーションの持つ可能性について議論を重ねてきました。
当初の研究目的は、真珠形成機構の解明や養殖技術の向上にありました。しかし研究を進める中で、「生物による炭酸カルシウム形成は地球規模の炭素循環と深く関係しているのではないか」「海洋生物が担う炭素固定の仕組みを新たな視点から捉えられないか」という着想が生まれました。この考え方はその後、大学や研究機関との共同研究へと発展し、現在の「炭酸塩生物学」研究領域へとつながっています。
炭酸塩生物学は、海洋生物が形成する炭酸塩や、それが長い地球の歴史の中で形成してきた石灰岩に着目する新しい学問領域です。石灰岩は地球上最大級の炭素貯蔵庫の一つであり、その形成メカニズムを生命科学の視点から解明しようとする研究が進められています。
さらに研究成果の社会実装を目指し、一般社団法人AICaS(水圏統合カーボン固定推進機構)が設立されました。海洋生物による炭素固定の定量化や評価手法の整備が進められており、将来的にはカーボンクレジットへの応用も視野に入れた取り組みが始まっています。
その中で私が特に注目しているのが「パールカーボン」という考え方です。真珠はアコヤガイがバイオミネラリゼーションによって形成する炭酸カルシウムの結晶体です。つまり真珠形成に利用される炭素は、海中から取り込まれた炭素に由来しています。貝殻やサンゴなどの炭酸カルシウム形成に関わる炭素を総称して「ホワイトカーボン」と呼びますが、その中でも真珠形成に利用される炭素を特に「パールカーボン」と位置付けています。
この新しい概念を広く知っていただくため、三重県鳥羽市のミキモト真珠島パールミュージアムでは、「炭酸塩生物学」と「パールカーボン」を紹介する展示が始まりました。展示では、海洋生物による炭素固定の仕組みや、真珠が持つ新たな環境価値について分かりやすく紹介してみました。
真珠はこれまで、美しさや宝飾品としての価値によって語られてきました。しかしこれからは、海洋生物が生み出す炭素循環の象徴として、もう一つの価値を持つ存在になるかもしれません。2006年の真珠層形成研究会から始まった研究の流れは、バイオミネラリゼーション研究、炭酸塩生物学、AICaSの活動、そしてパールカーボンという新しい概念へと発展してきました。
温暖化対策は、削減か開発かという二者択一ではありません。海洋、生物、そして人間社会が連携しながら炭素循環を理解し、その価値を正しく評価していくことが求められています。真珠研究から生まれた問いが、海洋生物による炭素固定という新たな研究領域へと発展し、持続可能な未来への可能性を示し始めています。
真珠が秘める科学の力は、私たちに新しい未来への視点を与えてくれるのではないでしょうか。 前山 薫
出典:炭酸塩生物学研究領域資料、一般社団法人AICaS資料、ミキモト真珠島パールミュージアム展示資料